
松本清治作品集 第7集 Seiji Matsumoto Original Part VII Imitation for piano OP.101
(Victor Custom Record PRC-30158)
A. ピアノのためのイミテーション 作品101
B. ピアノのためのイミテーション 作品101
Piano : Seiji Matsumoto
雑感日付 1978/4/14
これまで3回の『謎の現代音楽家松本清治を聴く会』を通じて、筆者が想像する1975年から1977年までの松本氏の作品制作の経緯をまとめてみた。
最初の2作、第1集(1975.11)と第2集(1976.7)は、医学生時代に衝撃を受けた能楽を自分のピアノで現代へ継承しようとした(西洋音楽の調性や無調性とは異なる)非調性の作品。しかしあまりに独創的過ぎてリスナー(恩師や友人たち)からの反応は芳しくなかった。
そこで調性をテーマにして詩の朗読も加えた第3集(1976.10)を制作。この作品は好意的に受け入れられ、特に女性からの評判が良かった。
しかし松本氏は調性=大衆性という安易な傾向に不満を表明し、非調性へ回帰すると同時に、全編自作の詩の朗読を取り入れた挑戦的な第4集(1977.3)を制作。リスナーに批評してほしいと願うが、音楽に対する本質的な感想(批評)は得られず、詩に書いた失恋は実体験なのか?とか、レコード制作にいくらお金を使ったか?といった下世話な質問が寄せらるばかり。
そこで、第4集制作中に息抜きのつもりで録音した調性のある作品を第5集(1977.6)として制作。テープの回転数を速めて諧謔性を強調したのは、曲も性格も暗いと言われる自分の陽気な一面をアピールしたかったからかもしれない。
挑戦的なアルバムを2作制作して落ち着いたところで、自分の音楽を見つめなおし、分析した結果が<私(自分)にとって、あるいは日本の音楽にとって大事な15の要素>という論文調の雑感が付された第6集(1977.10)であった。音楽的には自らの原点である能楽に立ち返った非調性作品となった。つまり、松本氏は自らの信念と周囲の反応のギャップに悩みつつも、「最後には、自分の信念しかないように思える今日この頃である」と決意を固めたのである。
その決意表明の翌年1978年の第1作がこの第7集。「ピアノのためのイミテーション」と題して、西洋音楽の調性を真似た遊びの要素の強い作品となっている。なに?前作で信念である「非調性」を極めると宣言したのではなかったか?「調性=大衆性」を嫌うと言いながら矛盾していないか?という疑問が頭に浮かぶが、その疑問を解く鍵は雑感にある。
いつのまにか、冬が、去ってしまった。今、桜は、満開である。快よい春風のもと、賀茂川などを、散策して みたいものである。
という春らしいウキウキ気分で書き始めた雑感は、第6集の分析を更に具体的に解説しつつ、日本人と西洋人の相違点が曖昧になりつつあるカオス的状況を語る持論へと突き進む。論考の中で語られるのが、物事には両極があるという真理である。シリアスを極めると、西洋音楽とは全く異なる日本古来の「非調性」の音楽がある。逆に遊びの要素を極めたところにあるのが<西洋の語法を真似た、いわゆる模倣つまり「イミテーション」>。すなわち松本氏の信念とは日本人独自の音楽のありかたを模索することであり、そこへ至るためには「非調性」だけではなく、「イミテーション」という別の道がある、というわけである。
西洋クラシックの行詰り、いや終焉かもしれないという歴史的認識のない人にとっては、遊びとしか、受けとれないのかもしれない。
アルバムを通して一つの作品だが、曲の構成はA面5曲、B面2曲の7つのパートからなる組曲となっている。第5集の躁病的な快活さとは一味異なる落ち着いた曲調や実験的なフレーズを多用し、テープの回転数を速めたエレクトリック・ピアノのような艶のある音色で描かれる非現実的な世界は、ヒーリングミュージックとしても楽しめる。
「イミテーション」というオルタナティヴな方法論は次の第8集にも引き継がれる。
(2025年10月18日 剛田武記)
注:文中のイタリック(斜体)は雑感からの抜粋です。

10月26日(日) 高円寺Oriental Force
~『松本清治作品集 第7集』(1978) 『松本清治作品集 第8集』(1978)
11:00 open 11:30 start (13:30 end)
入場無料 / 要1drinkオーダー
解説:剛田武
今後の予定:
第5回 11月8日(土)
第6回 11月22日(土)
第7回 12月13日(土)
第8回 12月27日(土)